大企業を退職し、ベンチャー企業へ転職した私のエピソード

これは令和版大企業の退職エピソード。

激務でも、胃に穴が空いた訳でもありません。
金融機関と言えども毎日定時近くに帰る、日本でトップレベルのホワイト企業です。

私は明治大学を卒業後、新卒で平均年収トップクラスの大企業へ入社しました。

輝かしいキャリアはここまでです。笑

地方へ秒速で飛ばされて、激務だと思った企業でホワイトすぎる大企業ライフを満喫。その後、社員の満足度日本トップ、働き方がとんでもなく自由なIT企業へ転職するまでのストーリーを公開したいと思います。

大企業を退職し、ベンチャー企業へ転職した私のエピソード

思い返すと、私が入社する半年前、 居酒屋で友人と飲んでいる時。
テレビでニュースが流れて来ました。
日銀がマイナス金利の導入を決定したとのこと。

当時は良くわかっていなかったです。
どんな影響があるのか、内容すらも良くわかっていなかった。

銀行にお金預けたらマイナスになるから投資した方が良い。

「証券会社に追い風だな。」
「チャンスだ。」くらいにしか考えていませんでした。

しかし、実態は真逆。

マイナス金利の導入以降、金融機関は経営環境が激的に悪化。
将来を不安視した若手の銀行マンや・証券マンの転職が相次いでいるとのこと。

どうやら、この兆候は金融機関だけでは無い様です。
人気企業のトップに君臨する三菱商事やトヨタ自動車であっても優秀な人材の流出が相次いでいるとのこと。

実際、国内トップの銀行に入社した友人も、日本一の自動車会社に入社した先輩もみーんな退職しているではないですか。

皆さんの周りはどうでしょうか?

周りの友人や先輩が誰もが羨む大企業に入社していたにもか関わらず
退職をしていて驚いたことがあるのではないでしょうか。

しかし、退職理由は昭和とは全く異なります。
平成とも若干違うのかもしれません。

以外かもしれませんが、現在の金融機関の働き方は劇的に変化しています。
恐らく平成での境界線は電通でのあの事件。

実際私が入社する前に聞いていた数々のやばいエピソードはそのほとんどが今の管理職層が新入社員だった頃の話で20年も前の話でした。

これは上司から聞いた話ですが、朝一番にお客様へ株のセールスをする。
普通に考えれば「トヨタが上がりそうだから100株買いましょう」が正解ですよね。

昔のセールスは朝一番に電話をして、「トヨタ買っておきました。」夕方に再度、「売っときました。」と報告するだけでよかったなんて話もありました。
 
飲み会では先輩の武勇伝を聞くのが楽しみで、僕は毎回腹を抱えて笑っていました。

私が入社した時はいたって普通です。
自転車に乗る時ですら雨が降っていたら乗るなと言われる時代でしたから。

兎にも角にも、過去と現在の退職理由は全く異なると思います。
本記事は令和に証券会社を退職した社員のブログです。

現在大企業に努めている方が転職後の世界を少しでも想像しやすくなって欲し
いという思いから執筆いたしました。

令和の社員が何を考え転職したのかその一部を文字に起こした記事となっております。

よく、大企業なんか早く辞めた方が良いとか、大企業を退職して悲惨な人生歩んでいますといったブログではありません。

人それぞれ会社に求めるものが違う以上、デメリットやメリットをしっかりと把握した上で自分にあった方を選んでいただきたいのです。

またこちらで登場する会社は本当にいい会社でしたという前提はご認識いただいた上でお読みください。(前置きすれば何いってもよい訳ではないですが笑)

私の転職(キャリア)はいわゆる外銀や戦略コンサル等を志望している人からすればメガトン級のヒットではありません。

ただ、給料も本業だけでもそれなりに稼ぎがあり、転勤も無くリモートワークで出社時間も自由という環境を手に入れたことを考えるとそこまで悪くもないと思うのです。

そんな平凡な奴のブログを読んでなにが楽しいんだという話ですが
読んでいただけると嬉しいです。

社会人になることを決意をした日

思い返せば私が社会に目を向けたのは2016年。
就活の体制が大きくかわった年。

就職活動の解禁日が大学3年の春休みである3月1日に変わりました。

当時はこんな大切な春休みの時期になにも解禁しなくてもという思いでいっぱいでした。

大学時代はバイトや副業に精をだすばかりで、ここには記載できないような金額を毎月手にしていました。(朝キャバの経営や、ゴミ屋敷の清掃業等わけのわからないこともしていました。)お母さんどうか僕のブログをみつけないで。

お金の使い方も知らない私は馬鹿みたいに飲んで、遊んで、高い服や時計を身に着け、宵越しの金は持たない江戸っ子並に気前の良い生活をしていました。

そんな環境にいたものですから、ゼミは無所属、当然インターンとは無縁の関係、就職するかも悩む意識の低い学生でした。

しかも私の就活時代は就活バブルと呼ばれ、空前の売り手市場です。

先輩たちが息を吐くように大企業の内定を得る姿を見てギリギリに始めたって、当然大企業に内定が貰えるだろうと余裕をこいていたのでした。

就職するか本当に悩んでいた私ですが、最終的には就職の道を選びました。

スーツを着て週末格好良く女の子と合コンするエリートサラリーマンも良さそうだなと思っていたのです。

お金の稼ぎ方はある程度身に付けました。今の様な生活はいつでもできる。
それなら一旦社会人を経験するのも悪くないな。

駄目ならきっぱり辞めてしまおうくらいの気持ちで就職活動をスタートさせたのです。

就職など意識したこともなかった私は情報量も浅く、とりあえず「平均年収ランキング」・「就職人気企業ランキング」・「合コンしたい企業ランキング」等で検索をし、登場する企業を片っ端から受けていきました。

就活は情報戦とはいったものの、自分の見せ方を知っていた私は、情報が無くとも就職活動には苦労しませんでした。内定は簡単にいただくことができました。

私の実力というよりは完全に時代の追い風のほうが大きかったと思います。

損保ITベンチャー銀行証券コンサルと選び放題で、断るほうが大変なくらいでした。 (ちょっといいすぎました。)

内定をもらう頃には、様々な社会人の先輩方の話を聞き、新卒で入社する会社の選定が非常に重要なことに気がついていました。

少し遅かったですが私は内定を貰った後に、自分はどこの会社にいくべきなのか真剣に考え始めたのです。

就職活動の軸には色々ありましたが、一番大きな軸は「成長できる環境」があること。

「飽き性」の私は将来、退職することが明白でしたので、転職や起業するにしても看板やスキルが無いと 横にも上にも動けなくなるのではないかと思ったのです。

だから社会人としてのスタートはスパルタでも何でも、ビジネスの素養が身につく企業に入りたかったのです。大学自体遊んでばかりいた私に選択肢はありません。

私の曲がった根性や生活習慣何から何まで全て叩き直してくれそうな証券会社を選びました。修行のつもりで選んだ企業です。就職前は気が気ではなかったです。

毎日社会人になるまでの日数を逆算して生活していました。
最終日は本当に悲しかったのを覚えています。

私の入社する企業は転勤がほぼ確定。嘘かほんとか甘えがでない様にする為に実家から遠い場所に配属するらしいという噂が飛び交っていました。

今まで引っ越しの経験も無し。一人暮らしの経験もない私にとっては死活問題だったのです。

全国には100を超える支店があり、どこにでも転勤の可能性がある訳です。
希望は聞かれましたが、叶わないらしい。

もう頻繁には今の友達とは会えないかもしれないと思い色々な人と飲み会をしていました。

証券マンとして社会人がスタート

証券マンとしての初日は穏やかではありませんでした。
そもそも勤務地すら分からない状態で入社式を迎えたのですから。

金融機関の中には研修で適正を見極め配属地を決める会社もありますが、
私が新卒で入社した会社は違いました。

配属地の発表は入社式前日のオリエンテーションなのです。
翌日、近くの宿に一泊したあと、翌日には全国から集まった社員が全国に散っていきます。(この話を聞いた時は一瞬耳を疑いました)

入社式当日は大きな会場が用意されています。
噂には、席が前列は北側への配属、後列は南側へ配属されると聞いていましたがこれは事実でした。

一番前列の左側が釧路支店、その次が旭川支店と配属が発表されていきます。
体には戦慄が走りました。

何を隠そう私は配属前の面談で、汗っかきなので飛び込み営業をするなら北に配置してくださいと伝えていたのです。

なんて余計なことを言ってしまったのだろうか。(汗)

刻一刻と私のところまで迫り、私の配属地が決定。覚悟はしていましたが、私も地方の配属です。

旭川や釧路に比べれば全然良い場所でしたが。(笑)

配属発表の翌日には、私は新幹線の中です。

配属地に着くと飲み会がセッティングされており、何度も自己紹介をされ、
時間が経つと先輩がニヤニヤしながら「俺の名前覚えてる」と聞いてくるのです。(笑)

初日の飲み会は至って平和です。普通に楽しい会でした。
飲み会が終わると寮長が寮まで案内してくれ、翌日の流れについて教えてくれました。

新聞を読んで気になる記事を要約して発表して欲しいので朝起きて近くのコンビニで新聞を買ってほしいと。出社時間は7:15分でした。

想像よりは遅かったのですが、大学時代は夜の7時でも寝坊したことがある学生です。私にとっては相当きつい。

しかも、配属というか、縁もゆかりも無い土地に足を踏み入れた初日です。
荷解きや、生活に必要なものの買い出しも終わっていません。

寮によっては布団が備えてあると聞いていた私は購入すらしていませんでした。
その日はアラームを4時半にセットし、ダンボールを下敷きに転勤初夜を迎えました。

想像よりも楽だった金融マン生活

・朝の暗い時間から起床し窓から差込む日光で新聞をよみながら、
体内時計をリセット

 

・社内で飲み会がある時は誰よりも早くお店に行き先輩の上着をハンガーに掛ける。


・飲み会の次の日は「ありがとうございました」といって回る。大人数での飲み会のあとは、ゲルマン大移動が起こる。

 

・社内メールの送信は宛先の順番は年次順。100名近い人数での並び替え業務は正気の沙汰ではない。

 

・毎朝半端ない数の紙のフルカラーの資料を印刷し、机の上に配布する。
→プリンターメーカーの町一番の大口顧客にな

 

・100kmウォーキングや雪合戦の世界大会等訳のわからないイベントに金と休日を投資して参加させられる。

 

・シュレッダー業務でまじで15分消える
→シュレッダー中にこれお願いと増えていく(笑)

 

・支店長と会話すんのめっちゃ緊張する
→もはや人ではなく、神的な存在

 

・話しかけると後輩が物凄く委縮する(笑)
→新人は呼ぶと命令もしてないのに駆け足で登場する

 

・先輩の前だと考えられないくらい委縮する

 

・転勤発表、いわゆる「ご栄転」が信じられないくらいの悲壮感がある。
→寮の先輩の時は漏れなく、いらないものを引き継ぐ羽目になる。

あげればキリがないですが、そんな生活は意外と嫌いじゃなかったです。
最初は色々と疑問が湧いていたのですが、数年もすれば自分を殺して働くことなど簡単です。

職場環境も快適で本当に良い人が多く、その心地よさにすっかり飲み込まれてしまっていたのです。

きつい仕事に耐えることで成長できているなって日々感じられたことが唯一の救いでした。

何より不思議だったのは、今までの人脈が0になると人間は同じ分量の新しい人脈ができるものだということ。これは転勤で最も勉強になった部分でした。

更にこういうところで出来る人脈は自分とステータスや職業が似ている人達なのです。「自分の友達5人の平均が自分」とは本当にその通りだと思う。

気づけば毎週のように気の合う仲間と遊び、本当に楽しい生活を満喫しました。

地方特有の繁華街が自宅から近いので終電の概念がなくなりいつまででも飲める現象や、 若干物価がやすかったり、合コンをするとなぜか東京出身というだけでモテることや、東京にいたら絶対にいかないであろう場所への旅行と、本当に地方ライフを満喫していました。

月〜金を必死で過ごし、週末は大爆発そんな生活に染まりきっていたのです。

業務は新規開拓業務。飛び込み、電話、飛び込み

新人証券マンの業務は雑用を除けばそのほとんどが新規開拓です。
同業他社とも頻繁に情報交換をしていましたが、最初の1年間はどこの会社も口座開設の件数と入金の金額で評価されるようでした。

ある月になると右も左もわからないまま地域だけ絞りこの辺りを攻めようと言われ営業活動が始まります。(平成最後の年も多少の違いはあれどほぼ同じ手法だとのこと。嘘のような本当の話)

新人は※国債キャンペーンという名のキャッシュバック(1000万円で4万円)がついた、定期預金よりはまだましな低リスク商品をとにかくマンパワーで売り込むのです。

※国が発行した個人への債権。国に個人がお金を貸して一定期間が経つと金利が得られる仕組み。

開拓の手法は様々ですが、基本は飛び込みとテレアポ。

飛び込み営業はきついと思われがちですが慣れてしまえば息を吐くようにできるのです。

新人の頃は帰り道だろうが、会食に向かう途中だろうが大きい家や会社があれば息を吐くようにインターホンを押していました。
車で遊びに行くときはビラを持ち歩き、ポストにインしていました。

電話に集中する日は一日アポ取りをしまくります。
意外と証券マンからの電話にでてくれる社長は多いですが、アポはほとんど取れません。

私は良く電話営業をするエリアまでいき、その住所の法人にひたすら電話をかけ
断られることを前提にアポを打診します。

断られた後は、もし近く通った際が挨拶だけでもさせてくださいと伝え、了承を得た先に2〜3分で飛び込み「本当に来たのか」と社長を驚かせ仲良くなるという手法を採っていました。

実際慣れてしまえば、こんなこと屁でもないのです。
慣れとはなんと恐ろしいものなのでしょうか。(笑)

雲行きが怪しくなってきた社会人2年目

私が入社した年は、軽いバブルの始まり。

株価は20000円を突破し、路線価とよばれる不動産価格の基準値は、1980年代に起こったバブルの価格近くまで上昇していました。

バブル時代の株価は最高値は39815円。

20000を突破したくらいでは到底追いつきませんが、当時の日本の上場企業の利益の総額は純利益ベースで約3倍近くにまで膨らんでいました。

当然美味しい話に、個人投資家が群がりました。
それまで見向きもされなかった投資家のバイブル四季報が飛ぶように売れていたのです。

勿論会社の自分の会社の決算も絶好調。(そんな時はだれも現状の違和感に気がつかないものでよね。)

この仕事の厳しさを知ったのは、相場の大暴落を経験した時でした。
(それまで入社してからアベノミクスによる上昇相場しか経験していない。)

こんな知識の無い私にも比較的お客様が増えてきた、1月のこと。

米国の市場が大暴落しました。きっかけは米国の雇用統計が良すぎたことでした。(はっ?って思いますよね笑)

「VIXショック」と名付けられた※ダウ史上最大の下げ幅が市場を襲いました。
※日経平均の米国版みたいなもの。

米国の相場と連動する日経も翌日大暴落。
私が買い溜めていた商品は軒並み顧客に損失を発生させました。

翌日は一日相場のフォローの電話をしていましたが、
私のお客様は良い人しかおらず、だれも怒りませんでした。

私の仕事は誰を幸せにしているのだろうか?
それから私はこの仕事での意義を感じられない日々が続きました。

金融営業マンとしての付加価値とは?

最初に違和感を感じたのはお客様と、営業マンとしての目標が全く別の方向を向いてることに気がついてからです。

お客様からいただく日々の手数料には何の根拠もありません。
顧客が損をしようが、得をしようがなんの関係もないのです。
コンサル職とはなんと難しいものなのでしょうか。

特に投資信託は悪名高く、規制で禁止されているにも関わらず、短期売買と言われる手法が頻繁に行われていました。

正当な理由がある場合に限り短期売買が認められており、その権限は営業チームに籍を置く課長にあるのです。

数字に困っている時の許可件数は異常にあがります。(笑)

以前よりは大分減ったたらしいのですが、、、

また、高い手数料率の中で、ガチャガチャとポートフォリオを変更するのは投資の世界では良くないとされています。

理由は売買にかかる手数料がパファオーマンスを押し下げる為です。

米国で行われた調査によれば、何も考えず米国株の指数投資を行っていた場合と、投資家があれこれ考えて投資をした場合のパフォーマンスは前者の方がよかったとのこと。

この衝撃の事実を受け、証券営業マンとしての付加価値にさらに疑問符を抱くようになったのです。

同い年でITベンチャー企業で役員を努めていた友人

さらに追いうちをかけた出来事が社外の人間との再開です。

彼は学生時代、社員数3名だった企業にインターンとして入社し、大学卒業後そのまま就職。その後2年間で、事業は急激に成長し50名超の企業となり、役員になっていたのです。

その友人との再開を通じて初めて自分の市場価値について考えさせられました。

彼が一人で粗利で数億を作り出している話や、会社の経営戦略・ファイナンス等、経営業務に携わっている話を聞き、同い年で こんなにも経験値に差がでていることに焦りを感じました。

また彼はPCを物凄く早く使いこなし、「アナログではどんなに頑張っていても限界はあるけど、マシーンの力を使えば数倍仕事が早くなること」を力説してくれました。

会社でPCを使用していなかったわけではありませんが、私は機能のほんの一部しか使いこなせていませんでした。

一方私は何が出来るのだろうかと頭を悩まされる日が続きました。
私は毎日触れているPCですら満足に使いこなせない。

友人は色々な企業のコンサルを行い、利益に貢献してフィーを貰っているのに対して私は天気予報よりも当たらない株の予想を提供してお客様からフィーをいただく毎日。

私の力不足でもありますが、顧客から求められている仕事というよりは仲良くなって
株や保険を買ってもらうというケースの方が多かったです。

中には本当に感謝してくれている人もいましたが、
ほとんどが情報弱者か、たまたま相場がよかったケースだと思っています。

それ以降、外部との情報収集を積極的に行い、自分の市場価値が会社だけではなく社会の中でどのような位置づけなのかを考える様になりました。

そんなこんなで自分のキャリアについて思い悩む日々が続きました。

崩れ始めたビジネスモデル

疑問を持ちながらも、仕事をこなす日々が続きました。
そうは言っても働きやすくお客様や先輩社員との人間関係も良好。

少し我慢をすれば、何不自由ない暮らしができます。
その当時付き合っていた彼女のことも考えると、転職というワードもいつしか心の奥底にしまう様になっていました。

しかし、いよいよ決断を迫られる日が訪れました。

米中貿易摩擦の影響で投資家のマインドは冷え込み、手数料収入が激減し始めていたです。のれん代等の損失の計上もあり、決算はリーマンショック時の水準まで落ち込みました。

その時必死で今後のことについて考えることにしました。

上場企業は情報の非対称性が凄く、経営が何を考えているかは末端社員にはほとんど伝わってこない会社が多いと思います。


当時ネットや社内で見れる共有された数字進捗等の情報をあさり、意思決定に役立てようと考えたのです。

その当時考えたことを8つにまとめて紹介したいとおもいます。      (※完全なる独断と偏見)

①高齢化により手数料収入が激減する
▶顧客の平均年齢は75歳。5年後は単純計算すると平均年齢は80歳。
金融庁は高齢者との取引に対して目を光らせており今後も規制が厳しくなることが予想される。

 

②銀行を始め様々な企業が証券業に参入するようになり、競争環境が激化する
▶低金利の中、お金を貸して金利の利ざやを抜きとるビジネスモデルでは収益をあげることができない。
▶金融機関の参入だけならまだしもカード会社やそれまで証券とは全く関係の無かった企業までもが参入していた。

 

③情報に価値がなくなり、営業マンが握った情報をお客様に提供して負荷価値を作ることは今後難しい
▶顧客がセールスの勧めた商品を検索し評判の悪い商品に関しては購買に至らない現象が多発。

 

④セールスの手法はアウトバウンドからインバウンド化し、今の営業手法が通用しなくなる
▶ケータイ電話の普及により、電話番号を一旦検索し、会社名を見て着信拒否を刷る人が多発。
▶マーケティングの世界でもプッシュ型からプル型の手法へと移行していた。

 

⑤デジタル化の波は想像以上に早くフィンテック等に市場を奪われるのも時間の問題
▶米国ではロビンフッド等の会社が手数料をとらないビジネスモデルに移行
▶SBI証券も今後手数料を撤廃するという発言をしていた

 

⑥支店は不要となり、マネジメント業務は不要に。完全歩合に近いプレイヤー集団の組織になる。
▶給与体系が変更。成果に基づくワイドバンド化する体制に転換
▶支店減少とデスクトップPCのは廃止とノートPCの配布決定

 

⑦IFA制度の浸透により、証券営業マンのあり方が一変する
▶米国ではIFAという呼称はあまり使用されていないが、
企業等に属さず活動している人の割合は4割近くにも登る。

 

⑧働き方が著しく古い
▶転勤等で自分の人生を自分で決められないことに納得感がない。
▶IT技術等の発達で様々な働き方が選択できる時代にこれは少し古すぎる。
▶そもそも自分が何をするか希望は言えるが基本は通らない環境はおかしい

※上記は私の独断と偏見ですのでご注意下さい。

そんなこんで、ジョブチェンジを決意した私ですが、どんな企業に入るべきなのかがわからない状態が続き非常に長引くことになるのです。

とにかく、選考を勧めながら自分のやりたいことを探そうと思った私は複数の転職サイトに登録を行いました。

市場価値を知った日

職務経歴書への記入や転職エージェントとの面談を通じて、自分の市場価値を知り始めました。

仲良くなって株を買って貰うこのスキルはなんと呼ぶのでしょうか?
その時自分にはこれといったスキルが無いことに気がついたです。

また別段素晴らしい表彰歴も無しです。

何をアピールしようか本当に悩みましたが、再現性の高いスキル(ウェブマーケやプログラミング等)を持ち合わせていなかった私は早々と作戦を切替え、ポテンシャルでの採用枠を狙いにいくことにしました。

これまでの人生観や仕事への取り組みかた、目の前の課題への考え方等を全面に押し出す施策に変更したのです。

しかし、すぐには上手くいきません。今では私は行きたくないですが、イメージだけで受けていたキラキラ外資コンサルのITコンサル部門でさえ最終面接で落とされる有様です。

手持ちの面接は、受かっても行きたくない様な企業群ばかり。

自分の興味をもった企業を少しづつ受けていた私は気づけば、転職活動を始めてから3ヶ月の月日が経っていました。
共に転職活動を始めていた友人は次々と転職をしていき、まだ転職活動しているのと言われる日々。

転職活動へのフルコミットを決意

このままダラダラと転職活動をしていては、仕事にも本気になれないし、真剣に働いている人に失礼だと思い期限を決めてフルコミットすることを決意しました。KPIで内定までに必要な数値を出しました。

とにかく応募数を増やすことに注力し、手当たり次第選考を受けまくることにしました。自分が興味がない企業でも面接官や社員との会話通じて入社意欲が高まることもあると考えていたからです。

結果30社以上への応募を行い書類選考が通過した20社にコミットすることにしました。業界はコンサル・ベンチャー・Webマーケ等様々です。中には社員数8名のスタートアップ企業もありました。

この中で共通項を探すとすれば唯一、「成長している産業」ということがあげられます。

オンライン上での面接がほとんどでしたが選考が進むとオフラインでの面接しか受け入れていない企業もありました。基本的に最終以外のオフライン面談が必要な企業は省いていましたが…

外交中の休み時間や自宅に帰ってからの僅かな時間を活用しとにかく面接を受けまくりました。 時には外交車の中でも面接を受けていました

気づけば面接マスターになっており、フィードバックを貰い自分の初対面での印象を磨いていくことに楽しみすら覚えていました。

回数をこなすと質問のパターンや、こちらが話すと面接官に印象の良い内容がわかり始めます。(あれ、私はなんの為に面接してたんだっけとなる程)

事件発生

もうあと一歩で内定のところまで来たときのこと。

退職を告げると決意した日まで1週間が迫っていました。
最終面接を4社も控え、本当に入社したい企業からも絶賛されなんとなく
内定が貰えそうな気配も感じていました。(勘)

そこで事件が発生します。

その週は多忙な週の中日だっと思います。社内共有のカレンダーには、お客様とのアポイントが3件づつ連なっていましたが、実際には全て面接です。(笑)

その結果、その場しのぎの数字すら作ることが出来ていませんでした。
まづかったのは電話の件数です。

社内で時間を決めて一斉に電話をしようという会があったのですが、退職するのにお客様に商品を買って貰うようなことは出来ず、その時間をデスク内にあった、書類をファイルから出し直ぐにシュレッダーにかけることができる様にしていました。

その結果、ついにバレたのです。私が営業活動に取り組んでいないことが(笑)

それに気がついた上司が直ぐに私を呼びました。もう呼ばれた段階で、怒っていました(笑)

これは完全に私が悪い。お金を貰っているのに、そんなことをしていたのですから!

私の会社では、通話件数をそれぞれみることができ、私の数字は2日連続0だったのです。

証券会社で電話の件数が0というのは私を怒ってくれといっているようなもの。

支店中に響き渡る声で私は怒られました。

「会社になにしにきてんだよ!!!」

あまりの怒号に支店中が静まりました。

言い訳もありません。ただ謝るばかりです。
まぁでも、今まで毎日通話件数100件くらいだった私の数字が0の時点で異常を察知し、もう少し違った怒り方があったのではと思ってしまいますが…(私が一番悪いのは大前提です!!!!)

そしていよいよ隠しきれないことを悟った私は翌日退職を告げることにしたのです。

そうなると誰かに言いたくなるものですよね。

気分の晴れなかった私は、その日後輩とハンバーグを食べにいき、「明日上司に退職を告げること」を伝えました。

前日の夜は気が気ではありませんでした。まだ内定もないし、退職すれば、キャッシュフローが止まります。

親にも退職することを伝えていなかったので、寮を追い出されるあと実家に
戻ることは許されません。

色んな不安はあったものの、このまま会社に残るのは今必死で戦っている社員に失礼だと思ってしまったのです。

『きっとうまくいく。』
私の大好きなインド映画のタイトルを何度も言い聞かせ、眠りについた頃は朝の5時でした。

退職を告げた日

証券会社で末端社員が管理職層を呼びだして話をするということはほぼ退職の相談以外にことなりません。

働き方が劇的に変わった証券会社の朝はとても遅くなっていましたが、管理職は残業代も支払う必要がないことから朝早いことが多かったのです。

最大限の配慮で、私は翌日の朝一番に会社に出社し、社内で上司を呼びました。
色々ありましたが、自分をここまで成長させてくれた会社です。
色んな思いが込み上げ最後は涙を流してしまいました。
入社して泣いたのははじめてでした。

そこからはトントン拍子です。
勿論すぐに快諾をいただいたわけでは有りませんが、退職の許可をいただくことができました。

その後の流れは退職日を決め、1週間程度で引き継ぎを行い、残った日数を有給に当てるというフローでした。

当然まだ内定の無かった私は、精神安定剤としてギリギリまで有給がほしかった。 退職日を有給が全部消化できる日数に設定して知らん顔で書類を提出しました。

以外にも、何も言われることは無く、すんなりと受け入れて貰えました。

最後はこれまで大変お世話になったお客様へお別れを告げにいきます。
最終出社日も近づき、最終日前日私は後輩と引き継ぎの挨拶まわりで同行していました。

その日は第一志望の企業の最終面接が控えていました。
後輩をランチへ行かせ、その隙間時間で面接の対応をしました。勿論得意の車内です。

面接はあまり上手くいきませんでした。
頭の切れる担当者の鋭い質問が飛び交いました。

挙げ句その日は通信状態が良くなく、相手の言葉を全て聞き取ることもままなりません。通信回線が悪い状態での鋭い質問程怖いものはありません。

最終面接はよければその場で内定を貰えることがほとんど。
しかし、私はその場で貰うことは出来ず。
退職したあと私はどうなるのか想像も出来なくなりましたが、まあなんとかなるだろうと開きなおりました。

迎えた最終出社日

バタバタとしていましたが、なんとかお世話になった方々への挨拶も済まし、
上司がセッティングしてくれた送別会へ。

向かっている途中1件の着信が入ったのです。
タクシーでの移動中の出来事。でれないのでスルーをしていると、SNSにメッセージが送られてきました。エージェントからでした。

「面接は通過です。おめでとうございます。」

その時は本当に安心しました。
人生でそう何度と経験することができないであろう気持ちよさです。

見切り発車で退職を告げた私ですが、最終出社日、業務終了後の送別会に向かうタクシー内で内定通知をうけることができたのです。
その後の送別会でのお酒がうまかったことは言うまでもありません。

これから転職活動をする皆様へ

あれこれ考えて足が動かない方も多いと思います。
特に大企業からの転職は本当に勇気が必要です。
でも、私の様に見切り発車でもなんとかなると思います。

考える < 行動する

この方程式が実現できる人は相当少ないです。
でも、考えていても何も変わらないし、今となっては行動してよかったなと本当に思う毎日です。

令和の時代新たなチャレンジャーが増えることを祈っております。

本記事が皆様のキャリアを考える上での一助になればと思います。

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